RECORD
Eno.96 加瀬秋日佐の記録
チャイムを鳴らすこともなく鍵の掛かっていない家の扉を開ける。
家の中からは賑やかな笑い声、子供のはしゃぐ声が聞こえてくる。
リビングに繋がる扉を開ければ、機嫌の良い大声が響いた。
「秋日佐!でっかなったなあ!」
「この歳ででっかならんわ!今年の健康診断、身長マジで据え置きやったで」
食卓に集まっている酔っ払い達に言い返せば、幼い子供らが楽しそうに突進してくる。
年始は父方の祖父母の家に行くのが決まった習慣だった。親戚の集まりは良い方で、叔父や叔母、甥姪に従兄弟が勢揃い。
「秋日佐、今年一人で来たん?」
「や。おとんとおかんは車駐めに行っとる。俺だけ先行けって降ろされた」
「二人の邪魔すんなって?」
「あはは!そおかもなあ!」
子供らが集まって遊んでいる方ではなく酔っ払いの集団の方へ。
適当な椅子を引っ張ってくれば、おちょこを押し付けられる。当然のように注がれたそれをぐいと煽って空にする。
「てか今年まだ麻雀やっとらんねや」
「いっつももっと後やろ」
「せやっけ」
「てか昨日もうかっぱらわれとったで、おっちゃん。アホほど奢らされとったやんな」
「じゃかしい。今日取り返すからええんじゃ。お前らも覚悟せえ」
成人済み男衆は食卓で飲み食いしながら駄弁っては麻雀で直接的には金の絡まぬ賭け事に興じて、女衆は隣の部屋で近況についてお喋りの花を咲かせる。
子供らも子供らで独自の集まりを作ってゲームをしたり、なんだり。
ここに馴染むことに苦労もない。手酌で酒を追加すれば、ほとんど無意識にスマホを手に取って眺めた。途端に揶揄いの声が飛んでくる。
「何や、そんなスマホ気にして。彼女かあ?」
「あ?」
言われてやっと意識した男はスマホから目を離して、それから首を傾げた。
「なん、そんな見とった?」
「お前スマホなんか気にせんやんけ」
「そか?」
「え、ちゃう?」
比較的歳の近い従兄弟は親戚付き合いの度に共に過ごしているからわりあい仲が良い。そこから見てそうならば、もしかするとそんなにも見ていたのか。
納得にはぎりぎり至らないままの様子に、随分と酔っ払った叔父が絡む。
「秋日佐ァ、お前もう二十三やろ。今くらいに彼女作って、その彼女と数年付き合って、結婚せえや。
そしたら子供二、三人作るんにちょうどええわな。なァ!」
背中を強く叩かれればお猪口が揺れる。少しだけ零れた。
「ア゛~~~絡み酒しょーもな!おっちゃんヤバない?」
「いっつもやん。諦めえ」
「は~、ボケカス!」
零れた酒をそのままにそこいらにあった料理をつつく。
真ん中にあるすき焼きの鍋は汁が少なく、甘い味付け。よく知ったこちらの味。
「んで?彼女ちゃうん」
「彼女おらんわ、今」
「へ~お前まあまあおるんに。院ってそんな忙しいん」
「そらそうやろ」
恋愛どころではないというのは全くもってその通り。ただし、その理由が勉学以外にもあることは流石に口に出せなかった。
適当に酒を飲んで、肉を食べる。その光景が何か、居心地悪い。
「今時は結婚もまだまだせんらしいな。二十三でせん?!ほんまに言うとんか!?」
「おい、誰かおっちゃん黙らしいや」
「おばちゃんどこ?助けて~」
賑やかな笑い声は毎年のもので、絡み酒だって慣れっこ。その輪の中に入っている筈なのに、時折何か足元がおかしい。
目の前がちかちかとして、気が付く。薬を飲んでいないかもしれない。
食卓の人間に特に断りも入れず、席を立って、二階へ上がった。
二階は基本的には飲みつぶれた人間が追いやられる場所だが、今はまだそんなこともなく静か。ただ大人しい子供達がのんびりと過ごしているだけだった。
子供らはやってきた派手な髪の男に驚くこともない。毎年見るから慣れているのだろう。
「秋日佐くん、どしたん」
「や、ちょい具合わるうて」
薬を開けて、飲み下す。一時的に神秘の影響を落とすもの。これがなければ昼の表には居られない。
子供らが心配そうにこちらを見ているものだから、男は苦笑した。
「ちょいここおらしてくれたら大丈夫やから」
目を閉じて暫く。薬が効くまでそんなに時間は掛からない筈なのに、少し待っても何も変わらない。
神秘の関係ではなく、ただ単に具合が悪いだけなのかもしれない。そう思い始めたころ、声が聞こえた。
「ひさくん」
思わず目を開ける。当然そこに居るのは子供らだけだ。
もう子供らは子供らの世界に戻っていて、テレビを見ながら笑いあっている。
ここは己がいる場所ではない。立ち上がれば部屋を出る。
廊下に出れば階下の賑わいが聞こえる。己以外に誰もいない。
今日はサングラスをつけていなかった、それでも己の瞳について誰からも触れられていないから、きっと薬はよく効いている。
黄金はそこにはなく、だから己は……何なのだろう。
ここ暫く抱えている違和感が膨れ上がる。口にしたことのなかった、それ。
「俺、って、俺か?」
「俺って、何なんやろ、なあ」
昨日の夜から表にずっと居る。己が曖昧になっていく。己がはっきりとしていく。
悍ましいものこそが己の芯なのだとすれば、この己は何なのだろう。
ときおり考えかけていたそれが急に目の前に現れるのは、ここにいるべきではないという感覚故。
瞬きをして、それだけ。下へ降りる。リビングの扉が細く開いている。
隙間から見える変わらぬ喧噪の中に、いつのまにか来ていた親の姿もある。
「なあ、俺多分な。もうプロポーズって一生せんのやわ」
「もう決めとるから、やって、そうしたかったから」
「もしかして、なあ、」
小さく零れた声は誰にも拾われない。拾わせない。
今ここにいる己をも、拾いそびれて。
「でも、大事やんな」
「でも」
「ごめんな」
一線を越えるには、ほんの一足だけで良かったのだ。
帰省2
チャイムを鳴らすこともなく鍵の掛かっていない家の扉を開ける。
家の中からは賑やかな笑い声、子供のはしゃぐ声が聞こえてくる。
リビングに繋がる扉を開ければ、機嫌の良い大声が響いた。
「秋日佐!でっかなったなあ!」
「この歳ででっかならんわ!今年の健康診断、身長マジで据え置きやったで」
食卓に集まっている酔っ払い達に言い返せば、幼い子供らが楽しそうに突進してくる。
年始は父方の祖父母の家に行くのが決まった習慣だった。親戚の集まりは良い方で、叔父や叔母、甥姪に従兄弟が勢揃い。
「秋日佐、今年一人で来たん?」
「や。おとんとおかんは車駐めに行っとる。俺だけ先行けって降ろされた」
「二人の邪魔すんなって?」
「あはは!そおかもなあ!」
子供らが集まって遊んでいる方ではなく酔っ払いの集団の方へ。
適当な椅子を引っ張ってくれば、おちょこを押し付けられる。当然のように注がれたそれをぐいと煽って空にする。
「てか今年まだ麻雀やっとらんねや」
「いっつももっと後やろ」
「せやっけ」
「てか昨日もうかっぱらわれとったで、おっちゃん。アホほど奢らされとったやんな」
「じゃかしい。今日取り返すからええんじゃ。お前らも覚悟せえ」
成人済み男衆は食卓で飲み食いしながら駄弁っては麻雀で直接的には金の絡まぬ賭け事に興じて、女衆は隣の部屋で近況についてお喋りの花を咲かせる。
子供らも子供らで独自の集まりを作ってゲームをしたり、なんだり。
ここに馴染むことに苦労もない。手酌で酒を追加すれば、ほとんど無意識にスマホを手に取って眺めた。途端に揶揄いの声が飛んでくる。
「何や、そんなスマホ気にして。彼女かあ?」
「あ?」
言われてやっと意識した男はスマホから目を離して、それから首を傾げた。
「なん、そんな見とった?」
「お前スマホなんか気にせんやんけ」
「そか?」
「え、ちゃう?」
比較的歳の近い従兄弟は親戚付き合いの度に共に過ごしているからわりあい仲が良い。そこから見てそうならば、もしかするとそんなにも見ていたのか。
納得にはぎりぎり至らないままの様子に、随分と酔っ払った叔父が絡む。
「秋日佐ァ、お前もう二十三やろ。今くらいに彼女作って、その彼女と数年付き合って、結婚せえや。
そしたら子供二、三人作るんにちょうどええわな。なァ!」
背中を強く叩かれればお猪口が揺れる。少しだけ零れた。
「ア゛~~~絡み酒しょーもな!おっちゃんヤバない?」
「いっつもやん。諦めえ」
「は~、ボケカス!」
零れた酒をそのままにそこいらにあった料理をつつく。
真ん中にあるすき焼きの鍋は汁が少なく、甘い味付け。よく知ったこちらの味。
「んで?彼女ちゃうん」
「彼女おらんわ、今」
「へ~お前まあまあおるんに。院ってそんな忙しいん」
「そらそうやろ」
恋愛どころではないというのは全くもってその通り。ただし、その理由が勉学以外にもあることは流石に口に出せなかった。
適当に酒を飲んで、肉を食べる。その光景が何か、居心地悪い。
「今時は結婚もまだまだせんらしいな。二十三でせん?!ほんまに言うとんか!?」
「おい、誰かおっちゃん黙らしいや」
「おばちゃんどこ?助けて~」
賑やかな笑い声は毎年のもので、絡み酒だって慣れっこ。その輪の中に入っている筈なのに、時折何か足元がおかしい。
目の前がちかちかとして、気が付く。薬を飲んでいないかもしれない。
食卓の人間に特に断りも入れず、席を立って、二階へ上がった。
二階は基本的には飲みつぶれた人間が追いやられる場所だが、今はまだそんなこともなく静か。ただ大人しい子供達がのんびりと過ごしているだけだった。
子供らはやってきた派手な髪の男に驚くこともない。毎年見るから慣れているのだろう。
「秋日佐くん、どしたん」
「や、ちょい具合わるうて」
薬を開けて、飲み下す。一時的に神秘の影響を落とすもの。これがなければ昼の表には居られない。
子供らが心配そうにこちらを見ているものだから、男は苦笑した。
「ちょいここおらしてくれたら大丈夫やから」
目を閉じて暫く。薬が効くまでそんなに時間は掛からない筈なのに、少し待っても何も変わらない。
神秘の関係ではなく、ただ単に具合が悪いだけなのかもしれない。そう思い始めたころ、声が聞こえた。
「ひさくん」
思わず目を開ける。当然そこに居るのは子供らだけだ。
もう子供らは子供らの世界に戻っていて、テレビを見ながら笑いあっている。
ここは己がいる場所ではない。立ち上がれば部屋を出る。
廊下に出れば階下の賑わいが聞こえる。己以外に誰もいない。
今日はサングラスをつけていなかった、それでも己の瞳について誰からも触れられていないから、きっと薬はよく効いている。
黄金はそこにはなく、だから己は……何なのだろう。
ここ暫く抱えている違和感が膨れ上がる。口にしたことのなかった、それ。
「俺、って、俺か?」
「俺って、何なんやろ、なあ」
昨日の夜から表にずっと居る。己が曖昧になっていく。己がはっきりとしていく。
悍ましいものこそが己の芯なのだとすれば、この己は何なのだろう。
ときおり考えかけていたそれが急に目の前に現れるのは、ここにいるべきではないという感覚故。
瞬きをして、それだけ。下へ降りる。リビングの扉が細く開いている。
隙間から見える変わらぬ喧噪の中に、いつのまにか来ていた親の姿もある。
「なあ、俺多分な。もうプロポーズって一生せんのやわ」
「もう決めとるから、やって、そうしたかったから」
「もしかして、なあ、」
小さく零れた声は誰にも拾われない。拾わせない。
今ここにいる己をも、拾いそびれて。
「でも、大事やんな」
「でも」
「ごめんな」
一線を越えるには、ほんの一足だけで良かったのだ。